マンスリー・レポート No.51 (2005年3月)
 

JICAよりの緊急要請/ABIC会員3名がインドネシア復興を支援

 インドネシア・スマトラ沖地震とインド洋津波による被災地支援が地球規模で進められています。ABICとして被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。本年1月に、わが国からも自衛隊900名規模の支援部隊がインドネシアに派遣されました。この活動に対する支援の一環として、ABICはJICA(国際協力機構)から、インドネシア語に堪能な人材を現地に派遣すべく人材推薦の緊急要請を受け、木倉充氏(元 三菱商事)が2月5日〜15日、また道廣健吾氏(元 丸紅)および藤波敏夫氏(元 明和産業)の2名が2月18日〜3月1日、合計3名がスマトラ島アチェ州の州都バンダアチェで活動しました。
 下記は、2月15日まで約2週間、現地で活動された木倉氏の臨場感のある報告です。

バンダアチェの救護所にて(著者)

インドネシア復興支援活動に参加して
  木倉きくら みつる(元 三菱商事)

 2月5日から約2週間、バンダアチェの被災地に陸上自衛隊医療部隊の通訳として派遣された。以下は、その体験談である。私は、インドネシア滞在期間が長く、地方回りもしていたので、派遣されることには抵抗感や不安は全くなく、むしろ不遜ながらバンダアチェという特異地域―「イスラム色が濃い」「渡航延期勧告地域」「文民非常事態宣言地域」―に行けるという好奇心の方が大きかった。

  患者への「問診」
 24時間警備体制の宿舎(一般民家)に到着後、移動には警察の護衛付きという生活であった。しかし、被災地視察や連絡で移動する際に、買い物や屋台での食事の時間があり、しばしの息抜きはできた。
 さて実際の活動は、医療部隊の通訳と聞いていたので、医師と患者の通訳と解釈していた。もちろんその仕事もあったが、私の仕事は患者に直接「問診」してカルテに記入し、医師はカルテを見ながら診察ということで、できるだけ簡潔かつ詳細に分かりやすくを心がけた。当地では予め「問診」というシステムはないので、私をドクターと間違える患者が多く、「私はドクターではない。次に診察する人がドクター」と説明していたが、ピークで1日250人もの患者へいちいち説明できず、「お大事に」と答えていた。
問診
問診通訳を務める青年海外協力隊OG、看護婦と
プスケスマス(診療所、保健所)跡地
土台だけ残り跡形もない
 患者は、「日本の医師の診断と薬がタダ」を口コミで聞いてきており、津波の被災者よりも慢性疾患患者が多く見られたようだ。つまり、津波から1ヵ月以上経過し、外科中心の緊急医療支援の時期は過ぎ、復興・再建の時期に入ったようだ。

通訳で困ったのはアチェ語
 通訳で困ったのは、お年寄りの中にバンダアチェ独自のアチェ語しか理解できない人が少なからずおり、伝言ゲームにならないように努力し、時間がかかったことと、自分の名前を書けない患者も数多く、聞き取りで書いた名前が正しいか否か、いまだに不明であること。陸自はカルテをデータベース化しデジタル管理しているが、名前で検索できるかどうか、一抹の不安が残っている。
 インドネシアには村単位でプスケスマス(診療所・保健所)という世界に冠たる医療システムがある。なにせ診察と薬がタダ。しかし医療機器は整っていないので、金銭的に余裕のある患者は民間病院や国立の大きな病院に行く。このようなこともあり、普通の人はレントゲンや血液分析装置まで整った陸自のテントで日本の医療を受けたいとなるのであろう。多くの患者が訴えていたことは、汚い水での水浴によると思われる「全身の痒み」、精神的なショックからと思われる「恐怖感」が圧倒的に多く、次に「下痢」「手足のしびれ」「風邪症状」「高血圧」と続く。今後は早急に「精神的なカウンセラー」が必要と思われた。

日本のカップ麺、非常時は「豚」OK
 気温40℃、湿度80%を超えることもあるテントの中で、2時間30分しゃべり続けるのが限度で、通訳の中にも体調を崩す方が出た。午前中で受付を終了し、1時すぎに宿舎に戻りインスタント食品で昼食後、しばしの昼寝となる。余談であるが、日本のインスタント食品には豚エキスを使用したものが多く、イスラムの戒律が厳格なアチェには向かないが、宗教関係者が非常時は「豚もOK」との声明を出したようだ。また、アチェは女性が外出するときは「ジルバップ」(スカーフ)を着けることが義務付けられており、着けていないと捕まる。酒は販売禁止で、陸自隊員は宿舎の艦船でも禁酒なので、フラストレーションが高まっているようだ。「豚はOK」が出たが、「酒はOK」は出ていない。

過酷な環境で、体重2kg増
 夜は、宿舎でローカル料理の揚げ物や煮物が多く、材料は「テンペ(大豆加工品)」「卵」「イカ」「アヒル」「鶏」「魚」「海老」「牛肉」と豊富であるが、生野菜はない。味付けは「ココナツオイル」と「唐辛子」が定番。
 このような生活をしていて困ったのは運動不足。なにせ、外出禁止で移動は車、考え方によっては、うまいローカル料理を食べて寝るだけと言えないこともない。数多くの方々が「熱中症」と「下痢」に苦しまれている中で、2kgも太ったのは運動不足以外考えられない。確かに、環境は苛酷でマラリア、デング熱、アメーバ赤痢等の感染症が心配されたが、幸い宿舎や陸自のテントには蚊やハエ、ネズミ等のベクター(感染源)が少なく、飲料水だけに気を付けていればよかった。看護師からは「1日2リットル」水を飲めと指示が出ており、1,500ccの経口保水塩入りのボトルを持ち歩く毎日であった。ちなみに、私が飲んだ薬は、整腸剤、ビタミンB剤だけであった。

柱が多く、構造がしっかりしているため、
モスクは残っている

自衛隊輸送艦「くにさき」で一泊
 関係者のご配慮で輸送艦「くにさき」で1泊する機会が与えられ、大型ヘリで片道15分、夕食は「生野菜サラダ」「牛乳」「ハヤシライス」を堪能、温水シャワーで汗を流し冷房完備の船室で1泊、女性通訳には特別の部屋が準備されており、至れり尽くせりのアレンジに通訳一同大感謝。医療部隊には女性自衛官もおり、看護師、薬剤師の仕事をされていた。ちなみに医療部隊の医師は全員男性であった。

再建・復興に向けて
 バンダアチェは再建・復興の時期を迎え、まずは「道路」「教育」「医療」が重要と思われ、日本に対する期待も大きい。仮設住宅の建設も進んでおり、各避難所からの移転も始まろうとしており、再建・復興に向けた大きな動きが出始めている。特に西海岸線の道路整備が完了するまでは時間がかかるが、その間、ヘリ輸送やホバークラフト(水陸両用の高速艇)による輸送が極めて重要となっている。
 水もミネラルウォーターは豊富にあるが、買わなければ手に入らない。物価も上がっている。

国際緊急援助隊(JDR)医療チームの診療所の看板

被災者の心のケアを
 余震も続いており、「また津波が来る」とのデマが飛び交いパニックになる。人々の心の不安は大きくなるばかりと感じる。
 バンダアチェ市内は平らな町である。被災地を視察したときにショックを感じたのは「高台がない」ことであった。海岸から内陸に数kmは高いところがなく、30mを超える津波が襲ったら逃げられない。いまだに瓦礫から死体が発見され埋められている。両親と離ればなれになった子供がモスクやNGOの施設や避難所で遊んでいるが、ようやく話すことができるようになった子供が、両親の名前や年齢・住所を言えるようになったと聞いた。
 キリスト教会に保護された孤児を、イスラム教徒が「奪い返しにゆく」話も聞いて、宗教問題の根深いことを知った。変な方向に向かないように祈るだけだ。

 日本は「顔の見える援助」が重要な要素となっているが、人々の心に通じる援助をすれば結果として「顔の見える援助」になるわけで、労働者をどんどん雇って「道路でも」「住宅でも」作ればいいのでは…と思いながら6時間遅れの帰りの飛行機に乗った。

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