マンスリー・レポート No.52 (2005年4月)
 

ABIC会員がインドネシア復興を支援

 先月号に引き続き、インドネシア・スマトラ沖大地震とインド洋津波災害復興支援のためスマトラ島アチェ州都バンダアチェで活動されたABIC会員の現地レポートである。JICA(国際協力機構)よりインドネシア語に長けた人材推薦の緊急要請があり、ABICは3名の会員を推薦した。下記は、2月18日から約2週間活動された藤波敏夫氏(元 明和産業)の報告である。

活動会員のレポート
自衛隊宿営地(空港内)にて(筆者)
バンダアチェ診療所全景

インドネシア津波災害・自衛隊支援活動に参加して
  藤波ふじなみ 敏夫としお(元 明和産業)

 2005年2月15日から3月1日までの約2週間、インドネシア・スマトラ島のバンダアチェ市に自衛隊の医療活動に通訳として派遣された。インドネシアは7年間の駐在経験があったが数百年に一度あるかないかの大災害であり、緊張感をもってバンダアチェに赴いた。

ラマラ自衛隊医療キャンプ
 自衛隊医療活動は先発したJICA医療チームより引き継ぎ、1月23日、ラマラのサッカーグランドで開始されたが、2月13日からは外科のみとなり、内科、眼科、小児科はミボの保健所に移転された。われわれが活動を開始した2月17日以降の患者数は、ピークで30名弱と移転前の10%程度であった。すでに津波発生より1ヵ月半以上経過し、緊急外科患者の来訪はほとんどなく、釘を踏み貫いた男子小学生が先生に連れられて来たが化膿していなかったため快方に向かった、また喘息の発作で息も絶え絶えの中年女性患者は、点滴と呼吸マッサージの処置の後、ミボに搬送された等の緊急患者があったがいずれも津波と直接関係ない患者であった。その他大多数の患者は消毒、ガーゼ交換がほとんどで、多少物足りなさを感じたものである。
 ある日、地元の小学生20〜30名ほどが招待され、自衛隊歓迎セレモニーが行われ、自衛隊より子供たちの写真、文房具等が配布され、地元住民との交流と自衛隊広報活動が行われた。医療活動の主体はミボになったとの印象であった。しかし印象深い患者が1人いた。それは20歳代の男性で、両足の内側のモモの肉がえぐり取られてかなり時間経過していたが、肉が盛り上らず皮膚の回復能力が破壊されたようであった。心にも大きな傷を負ったようで、伏目がちでPTSD(心的外傷後ストレス障害)が懸念された。松葉杖で友人に支えられる状態であったが一日も早い回復を祈るのみ。お年寄りにアチェ語しか話せぬ人もあり、自衛隊が雇った現地人通訳の助けを借りることもあったが、患者数の減少で問題なく業務が遂行できた。

津波にも耐えたモスク
市街に残された漁船
地震の被害を受けたビル
災害現場にて
後方土台のみ

ミボ保健所における支援活動
 ここは朝から60〜70名の患者が待っており、連日、診療終了まで200名を超える患者が押しかけ盛況であった。受付は現地保健所職員が行い、私は第1〜4診療室へ患者を振り分け、受付・待合所で活動した。振り分けは患者より病状を聞き、自衛官に診療室を判断してもらい、それを患者に伝えるのだが、第4診療室がインドネシア人医師の担当で、そこに振り分けられた患者は日本人医師にしてくれと苦情を言ってくるケースが多々あり、その説得に苦慮した。患者自身が振り分け番号を改ざんして日本人医師の診察を受けるちゃっかり者もいた。
 待合室の混雑状況から、振り分け業務を一時停止することがたびたびあったが、現地職員の名前のつづりを読解できぬ文字が多々あり、患者に聞くことがしばしばであった。待合室では振り分けられた患者を順番に呼び出すのだが、「ここは風通しが悪く、人息れで暑く、子供がいるので順番を上げてくれ」とか、「たくさんの病状を訴えたのにこれしか薬がもらえなかった」とか、「やはり日本人医師の診療を受けたい」と訴える人でまるで苦情処理班であった。さらに、そのたびに私のそばに患者が集まってくるので「順番に大きな声で呼びますので座ってください」と叫ばねばならなかった。全身のかゆみ、手足のしびれ、腹痛、胸の痛み等を訴える患者が多かったが、これはまさに生活習慣病で、井戸水、雨水の溜め水で水浴、洗濯、調理に使用しているのが原因であると思われた。

生活環境・安全対策
 宿舎は24時間私服警官が常駐し、ラマラキャンプの往復も私服警官が同行、ルートも2〜3日ごとに変更された、活動地区ではインドネシア国軍の兵士に守られており、安全対策は万全であった。日常生活は朝7時半出動、昼すぎには帰宿舎する半日業務であった。昼夜とも単独での外出は禁止されているため、昼食後は昼寝、読書で時間をつぶした。
 ここアチェ州は非常に厳しいイスラムの教えを厳守する地域なので、われわれも禁酒生活を強いられた。このため食事が最大の楽しみであった。大家さんのお母さんの料理は美味しく、特にアヒルやカレー料理は抜群で、ストレスも相まって赴任5日間で体重が3kg増量してしまった。冷水浴、和式水洗トイレ生活は経験があり、問題なかったが、同行の青年海外協力隊のOG(うら若き女性)も完全に適応しているのには感心した。

津波災害現場、住民の恐怖心
 今回の津波はスマトラ北海岸、西海岸の数百kmにわたり、海岸より5kmの内陸を襲い、所によって高さ45mとケタ外れの破壊力を持った津波であったとのこと。バンダアチェ市の北海岸地区の視察現場では、東西方向はほとんどさえぎるものがなく、地平線まで瓦礫の原野が見渡せ、広島、長崎の原爆投下直後もかくの如きかと想像された。
 海岸より10mほどの所にあるイスラム教会(モスク)が原型を留めていたのは驚きであった。今後、おそらく宗派の聖地となることであろう。地震本来の被害は直下型でないためか意外と少なく、大きな横揺れが2〜3分くらいであったため、上屋が重たい鉄筋コンクリートの大きな建物の1〜3階部分が潰れた程度であった。宿舎への帰路、道端に付近の住民が多数出ていたが、余震があった様子。このような光景は余震のたびに見られるようで、夜間に余震があり、誰かが山に向かって走り出し、集団暴走が起こったこともあるとのこと。まだまだ津波への恐怖は住民の心を蝕んでいると感じた。
 2月28日朝、10年後の災害地に再訪したいと思いつつジャカルタに向け帰路についた。

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