マンスリー・レポート No.53 (2005年5月)
 

インドネシア災害復興支援活動に対してJICAから感謝状

JICAからの感謝状
 インドネシア・スマトラ沖大地震復旧支援のためわが国から自衛隊が派遣されました。ABICはJICA(国際協力機構)からの要請に基づき、支援の一環としてインドネシア語に堪能な3名のABIC会員を推薦し、3名の方々はスマトラ島州都バンダアチェで約2週間活動されました。
 このたびこのABICの協力に対して、JICAから感謝状をいただいたのでご報告いたします。

活動会員のレポート

上記支援活動につき、3名の会員の方々の現地レポートを3月号から連載しているが、最終回は道廣健吾氏(元 丸紅)の報告である。

インドネシア国家警察発行
TSUNAMI TASK FORCE IDカード
(アチェ滞在許可証)

国際緊急援助隊自衛隊支援への参加体験記
  道廣みちひろ 健吾けんご(元 丸紅)

 昨年暮れにインドネシアのスマトラ島沖で発生した大地震とそれによる大津波は、すでに報道されたとおり、インドネシア、タイ等の近隣諸国に多大な被害を与えた。特にインドネシア ・アチェ州での被害は最も大きく、死者・行方不明は23万人を超えたと報じられている。日本政府は、自衛隊部隊(900名)とそれを支援するJICAからなる国際緊急援助隊をアチェ州に派遣し、復旧援助支援に乗り出した。
 この緊急援助隊に2月15日〜3月1日の約2週間参加してこの目で見、体験した実情を報告する。

活動状況
 今回派遣された自衛隊部隊の活動内容は医療・防疫・物資輸送に分かれた。一方、国際緊急援助隊のわれわれ通訳要員は自衛隊の医療・防疫活動が円滑に進むようサポートし、私は自衛隊医療チームの活動に通訳として参加することになった。
家族で診断を待つ患者
 毎朝6時前に起床、朝食後7時30分、JICAの車で宿舎を出発して、自衛隊医療チーム外科専門のテント張りの診療所に8時すぎに到着。さらにそこから車で数分先の所に内科(小児科・婦人科を含む)の診療所と薬局がある。
 外科専門の診療所に津波の怪我で治療に通う患者は日ごとに減り始め、1日平均20人弱を3名の通訳が担当。仕事はそれほどハードということはなかった。ところが内科専門診療所の方は、1日平均150人、多い日には200人以上の患者数であり、自衛隊医師(3名)と通訳(5名)は大変であった。
 朝9時前に診療所に着くと、すでに40人前後の患者が待っているのにまず驚かされた。その数は、時間とともに増え続け、ピークの10時ごろには80人程度の患者が炎天下で1時間以上も辛抱強く待っている。内科の患者の病状は千差万別で、津波に遭った際の恐怖感による精神的症状(頭痛等)、津波に飲み込まれたことによる腹痛、呼吸困難、咳、皮膚のかゆみとただ

れ、背中および腰の痛み等々。けれども、治療を受けて満足げな顔をして帰っていく患者の姿を見ると疲れが吹っ飛び心が和らぐ思いがした。
 診療所は内科・外科ともに土・日も通常どおり休みなしの勤務だが、自衛隊医療チームが2月20日(日)を休診にすると発表したので、われわれも正直ホッとした。ただ、インドネシア政府軍とアチェ独立運動との紛争により、アチェ州では文民非常事態宣言が出されているので、終日、宿舎から一歩も外に出ることはなかった。

かつて村があった証の標識

被災地の見学
 JICAリーダーの案内でバンダアチェ被災地の跡を見に行ったが、海岸からの被害の状況は今までメディア報道で見聞したものをはるかに超える悲惨な様相で、津波の跡の恐ろしさをさまざまと見せつけられ言葉も出なかった。
 その中で数本の太い円柱と屋根が残っている建物がポツンと立っていた。それが回教寺院で、地元民がお祈りをささげるべく集まっていた。円柱が残ったのはイスラム・アラーの力だと地元民は言っていたが、太い円柱は頑丈なうえに円筒形なので波から受ける影響度が少なかったのであろう。
 津波発生から2ヵ月近く経過しても、今だに瓦礫がれきの下から遺体が発見され、集められた数十体の遺体を積んだトラックが走っているのを見かけた。一方、バンダアチェの海岸から数キロ奥に入った市内の商店街では開店し始めた店がかなり増えているが、商品の入荷が思うようにいかず、全般に品不足気味で諸物価は上昇傾向にあると言う。アチェ州は元来天然資源に恵まれた州であり、国営石油会社プルタミナの子会社のLNG(液化天然ガス)の産出による収益の5〜6%が州政府に還元されているので財政状態は悪くないはずで、町の立ち直りは案外早いかもしれない。しかし、今回の津波大被害もあり、アチェ州政府は上述の数パーセントのリターンでは少なすぎると中央政府に対し不満を抱いているようだ。
 いずれにせよ、このように焼け野原のような跡地の姿が完全に復活するのはいつのことになるのか、日本をはじめ世界各国の復旧支援を受けて一日も早い復興を願うところである。

滞在先の家族と

バンダアチェでの貴重な生活体験
 現在アチェ州は文民非常事態宣言が発令されており、宿舎から診療所までの車には警護の私服警官が同乗しているが、幸いにもわれわれが危険を感じたことは一度もなかった。われわれの宿舎に関しては、当初は自衛隊艦船での宿泊も検討されていたようだが、結局JICAが現地で借り上げた民家での宿泊に決まった。この民家は築20年の2階建てで1階に寝室4部屋、そのうち家主の家族が3部屋を使用、残り1部屋が私に割り当てられた。2階は寝室5部屋に共同トイレ付水浴場が5つある。この民家にJICA第1陣派遣隊のときには40人近い男女が床にゴロ寝の共同生活をしていたと聞いて感心した。
 延べ100人のJICAの派遣員の中で3分の2が下痢、熱中症などを訴えたとの報告を出発前に聞いていた。炎天下でのハードワークと、現地の食事、水も原因だろうが、それに加えて不自由な生活環境下でのストレスも影響したのではないかと率直に感じた。食事に関しては内地から大量の、それもいろいろな種類のインスタント食品やレトルト食品が持ち込まれており、全く問題なかった。また、民家のメイドが作ってくれるインドネシア料理もなかなかおいしく、若い派遣員(通訳)や青年海外協力隊の人々も好んで現地食を食べていたようだ。
トイレの横にある
インドネシア式風呂(水槽)
 アチェ州はジャカルタと異なり、回教規律が厳しく、ビール等アルコール類は一切御法度である。この宿舎の主人も敬虔けいけんなイスラム教徒なのでここは我慢のしどころだ。水は地元製の0.5リットルと1.5リットルのペットボトル(aqua)が買えるので、それに内地から持参の粉末のスポーツ飲料を入れて仕事場に持って行き、熱中症対策として炎天下チビリチビリと飲みながら身体に水分を補給するのだが、その時間もないほど多忙な日もあった。
 宿舎での風呂は湯が出ないので当然水浴である。トイレの横に貯めてある水(井戸水でトイレ後もこの水で流す)を柄杓ひしゃく で汲んで頭からかぶる典型的なインドネシア方式である。私の場合、30年以上も昔にすでに経験済みなので何とも思わないが、今回数名の、30歳前の美貌の女性海外協力隊達も全然平気でいるのには、よく訓練されているなあと感服した。
 宿舎では洗濯もままならぬと聞いていたので、下着などは滞在期間中の2週間分を用意していたが、実際には段ボール箱に洗濯物(男女共通)を入れておくと3〜4日で洗ってくれる。しかし湿気が多いため乾きにくく、少々湿っぽい臭いがする。通信関係では、日本との電話は一切通じない。もちろん、日本の新聞なども手に入らないので、この2週間は日本で何が起こっているか、さっぱり分からなかったが、これは仕方のないことだ。

結び
 このように、バンダアチェでの生活自体は、正直言って味気ないものであったが、大きな救いは、この2週間、若い男女の青年海外協力隊の人達と同じ釜の飯を食って共同生活したことで、彼らの生き生きとしたエネルギーを吸収させてもらったことだ。また、彼らの現場での献身的な活躍ぶりを目の当たりにし、近ごろの若者も捨てたものではないな、と感心させられた。今後、他地域でもさらなる活躍を期待したい。
 最後に述べておきたいことは、今回東京出発時からずっと付いて来てくださった看護師の存在が非常に大きかったことだ。各自健康管理には十分気を付けているつもりでも、こんな僻地へきちで何かあったときには直ちに相談できるという安心感が目に見えないファクターとなってわれわれが仕事に集中できる基となっていたことは確かである。宿舎では食事面でも何かと健康管理にいろいろと気を使っていただき、おかげでわれわれ一同(第4陣、第5陣)、下痢、熱中症などにかからず元気で帰国できたことを感謝したい。
 そして私自身、この灼熱の厳しい環境の中で、微力ながら自衛隊支援という役目の下、スマトラ津波の被災者のために少しでもお役に立てたと自己満足して帰国した次第である。
 本日、JICA(緒方貞子理事長)より今回の国際緊急援助隊参加につき感謝状を授与する旨連絡があった。謹んでお受けしたいと思う。

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