マンスリー・レポート No.101 (2009年5月)
 

「2009年世界卓球選手権横浜大会」を支えるボランティアにABIC会員26名参加


 2009年4月28日から5月5日までの8日間、横浜市の横浜アリーナで国際卓球連盟(ITTF)主催の「世界卓球2009横浜」が開催されました。この大会を支える様々な分野の語学ボランティアとして26名の会員が参加し、活躍されました。その中の3名の方々から体験記が寄せられましたので、ご紹介いたします。

世界卓球選手権大会の ボランティアに参加して

浦田 うらた 房雄 ふさお (元 長瀬産業)

 ABICから横浜アリーナで行われる「世界卓球選手権大会」のボランティア募集があり、昔とった杵柄、興味半分も手伝って早速応募した。私が卓球に手を染めたのは中学生の時で、それは1954年ウェンブレー(英国)大会での荻村伊智朗のシングルス優勝がきっかけであった。それ以来若干のブランクはあったが、現在でも地域の同好会に入って続けている。

Delegation Information Deskにて筆者(右)

担当部署はDelegation Information Desk
 私が担当したのは、大会本部からの種々の情報を参加した国々の関係者に手渡す仕事であった。148ヶ国(選手635名)が参加したこともあり、大会初日の28日には、大会本部が出す種々の情報を得ようとデスクの前は多くの国のコーチ、役員そして選手でごったがえしの状態が続いた。中でも選手の一番の関心事は「ラケットコントロール」予定表で、人体に有害な溶剤を含む接着剤をラケットに使用していないかを事前に厳しく検査される。検査結果によっては試合に出場できない場合もあり、各選手は真剣に予定表をチェックしていた。

往年の名プレーヤー 河原 智さん(右)と

往年の名プレーヤー 河原 智さんとの再会
 渡された公式プログラムを見て懐かしい名前を発見した。1967年ストックホルム(スウェーデン)大会では日本のお家芸と言われるだけあって、7種目中6種目優勝したが、男子団体優勝の立役者の一人、河原 智さん(現横浜市卓球協会会長)である。私が長瀬産業に在職中、卓球部のコーチを依頼したが、快く引き受けていただき、度々会社に足を運んでもらい指導を受けた。また、軽井沢での合宿にも参加され、夜は酒を酌み交わしながら現役当時のエピソード等をご披露され、それは楽しいひと時を過ごした。われわれ素人にとって憧れの存在だった選手に身近に接することが出来たことは貴重な体験であった。今回、会場で再会できたことは懐かしく、また嬉しいことであった。

ITTFの卓球博物館
 会場内に設置されたミュージアムでは、スイスのローザンヌにある卓球博物館所有の卓球関連の文化的遺産が展示されており、興味深い品々に眼を奪われた。卓球が多くの人々に愛されてきたスポーツであることが示されていた。世界の有名人が卓球に興じる写真も数多くあり、「エデンの東」のジェームス・ディーン、「007」のショーン・コネリー、三大テノールのパバロッティ、最強のゴルファーのタイガーウッズ”などが目を引いた。

福岡春菜選手と記念撮影 左からボランティア仲間の
ABIC会員の平野潤氏と堀江博氏、筆者

国際貢献・交流
 1971年に行われた名古屋大会を卓球部の友人と観戦した。文化大革命のため不参加だった中国がこの大会から復帰していた。たまたまアメリカの選手が間違って中国選手用のバスに乗り、それがきっかけとなって米中の話し合いが開始されたと聞いている。所謂“ピンポン外交”の始まりであった。国際スポーツ大会は友好・親善の場を創りだす働きをしたと印象深く覚えている。この度この大会にボランティアとして参加したことで改めてそれを実感した。
 デスクを訪れた多くの国の人達とのさりげないやりとりが友好の雰囲気を創り出していった。大会の終わり頃には、オランダの選手が陶器の木靴のお土産を私達ボランティアにくれ、ジャマイカの選手は国のコインをプレゼントしてくれた。期せずして人と人との交流の場となっていった。ささやかな友好のお手伝いができたのではと満足している。

中国の厚い壁─神技の連続!
 幸いにも男女シングルスの決勝戦を観戦できた。共に中国選手同士の戦いとなったが、息もつかせぬ神技の連続に圧倒された。一流選手のスマッシュの球の速度は何と170kmだそうだ!1950〜60年代の日本がわが世の春を謳歌した時代を再び到来させるのは、一筋縄ではいかないと思った。
 日本選手も頑張った。松平健太選手は世界ランク2位のMA lin(中国)にフルセットの末惜敗したがアリーナの観客を大いに沸かせた。また、石川佳純選手はランク10位のTIE Yana(香港)を破り、ランク1位のZHANG Yining(中国)から1セットを奪うなど大健闘し、さわやか旋風を巻き起こし、将来への期待を持たせたことは一筆に値する。

決勝戦(5月5日)

メディアの果す役割
 この大会をテレビが初日から最終日まで報道してくれたので、多くの人達の口に上った。日ごろ卓球の話題の乏しい我が家でも連日食卓でのメインテーマになったほどだ。今まで卓球は参加するスポーツで、見るスポーツではない、といった評価があったが、カメラ技術の向上により、テレビ観戦でも十分にその醍醐味を味わうことができるようになった。
 卓球は決して地味なスポーツではない。メディアの果す役割の大きさを痛感し、今回の報道によって多くの卓球ファンが誕生することを祈ってやまない。

 

横浜世界卓球選手権ボランティア体験記 ─ラケットコントロール

栗原 くりはら 秀司 ひでじ (元 トーメン)

ラケットの検査機器が置かれている
ラケットコントロール室にて
筆者(中央)、右はABIC会員草刈武雄氏
遅番の草刈武義ABIC会員(右)と業務引継ぎ

 4月28日から横浜アリーナで開催される世界卓球選手権でボランティアを募集しているとのABICからの案内に応じ、4月29日から6日間ボランティアをした。

 語学が必要な部門として、ITTF(世界卓球連盟)事務局補助とラケットコントロールに配置されたが、面白かったのは、ラケットコントロールの方であった。 ラケットの厚みや、有機溶剤の使用の有無を専門の検査員が検査をするが、選手からラケットを預かる受付がボランティア5人の仕事である。選手が受付にラケットを持参するのを預かり、氏名、選手番号、ラケットのラバーのメーカー、品番等を記入した書類を作成し、検査員へ渡す。またチェックが済んだラケットを、試合開始5分前までに会場のコートに運び、審判に渡す。連絡が伝わらず事前に選手がラケットを持ってこない場合は、試合後のチェックとなるので、あらかじめ選手名を書いた空箱を審判に渡し、試合後に審判が回収したラケットを受け取って検査に回す。
 45分インターバルで試合が進行するので、滞りなく検査を済ませてラケットを届けるのは、時間に追われる仕事であった。ここでは有名選手、平野早矢香、石川佳純、水谷隼、岸川聖也などの日本選手や、中国の選手を間近に見ることができ、また審判へラケットを届ける時には、各国の選手が白熱の試合を20面以上のコートで展開している中を通るという役得があった。日本選手をそっと応援することができたし、現場で見る会場の緊張感、試合のスピード感は、TVでは分からない迫力があった。

 ボランティアのシフトは、早番、遅番、夜番とあり、私は早番を希望したので、毎朝8時までにボランティアセンターのある、新横浜プリンスホテルに行かなくてはならないが、約60分の通いも、期間中好天に恵まれ、東横線の菊名駅から散歩気分で歩いて行くことができた。
 12時過ぎに遅番のボランティアと交替し、配給されるお弁当を同じ仲間とダベりながら食べ、見たい試合があれば見て帰った。初対面の人とも同じボランティア仲間ということで打ち解け、昼食は楽しいおしゃべりの時間であった。中には、ご自身が熱心に卓球をやっている方々もおられ、午後遅くまで試合を見て帰られる方もおられた。
 ITTF事務局の補助の仕事は、ラケットコントロールよりゆとりがあった。ITTFが行う種々の会議、ミーテイングの会場案内などであるが、役員用においてある8台のパソコンがインターネットにアクセスできなくなって技術者の修理を頼んだり、パソコンができない中東のお年寄りの役員に頼まれ、手紙をタイプしたりした。

 このようなボランティアへの参加は初めてのことであったが、実際に参加して、ボランティアは様々な人達と接して、楽しんだり、学んだりできる貴重な機会ではないかと実感した。

“2009年ITTF世界大会”での ホットなボランティア体験報告

平野 ひらの じゅん (元 伊藤忠商事)

往年のチャンピオン伊藤繁雄さん(右から二人目)と記念撮影

大会規模と世界覇者の流れ
 4月28日〜5月5日、8日間に亘る大会にABICボランテイアグループの一員として参加・協力した。 日本では六度目のビッグイベントに世界の148の国と地域から1,500人が参加し、“競技と会議”を盛大に挙行した。中学から始めて、学生リーグから社会人、海外、そして現在に亘り、日頃から卓球を生涯スポーツと位置づけ、励んでる自分にとって最高の舞台と役割を得て、欣喜雀躍の充実した毎日を楽しんだ。

2つのボランティア業務について
 大会開幕前の4月25日、26日の2日間は、選手・役員受付業務補助(ホテル到着時の名簿照合、旅券・チケット確認)を、開幕後はアリーナ2階に特設のITTFミュージアム補助(来場者の対応)の2つの業務を行った。
 ITTFミュージアムには、展示会場とビデオ・アーカイブ会場があり、同ミュージアム本部(スイス・ローザンヌ)の5,000点の収蔵品の中からから選別したものを展示した。いずれも館長のチャック・ホーイ氏が来日し、展示デザインに当たった尽力の賜である。
 展示会場では、卓球の生い立ち、用具の変遷、写真ポスター、日本皇室使用のラケット、過去の世界大会優勝者(個人・団体)氏名と写真を第1回1926年より年代順に一覧、歴史的な「米中のピンポン外交」毛沢東、周恩来、ニクソンの写真とタイムス誌等を展示するなど、貴重な資料が多く、非常に興味深かった。ビデオ・アーカイブ会場では、過去の名勝負の大変貴重なビデオが上映された。
 上記の業務はいずれも往年の南米駐在経験から「Spanish」表記の語学IDカードを胸に応対したが、大いに役立った。スペイン語圏のスター選手は中国系帰化選手を除き少ないが、参加者は多く、往時パラグアイで筆者が共にプレーした日系選手を知る役員に出会い、懐かしかった。
 ホテルでの選手受付で気付いたことだが、欧州・北中南米の選手団にかなりの中国選手が帰化を得て、参加する現実に出会い、世界中に中国選手が溢れていることを改めて認識した(日本でも3名ほどトップレベルで頑張っているが)。

往年のチャンピオンや有名人との出会い
 伊藤繁雄さん(1969年ミュンヘン男子単 優勝)は何度もミュジアムに顔を出され、最終日の男女・単優勝者にトロフィー授与をされた。河野清さん(1977年バーミンガム男子単・優勝)。上原久枝さん(89歳、日本が誇る名選手荻村伊智朗を支えた卓球場のおばさんとして伝記『ピンポンさん』で裏の主人公として内外に知られている)は家族に付き添われ車いすで来場。中国のLiang Geliang(梁才亮)さん(1977年バーミンガム男子複・優勝、1979年平壌 混合複・優勝)など。

世界の中の日本人選手に期待する将来像は
 かつて世界に誇った日本卓球は、1950年から1970年代を過ぎ、男子は30年、女子は40年もの間、金メダルからはるかに遠のき、その間ヨーロッパ勢も脱落し、中国が男女ともほぼ優勝を欲しいままにして来た。
 今大会は男子・複の水谷・岸川組が12年ぶりに銅メダルに輝いたが、ホームで戦うが故に、余計に緊張し、ランク以下の選手に早々に屈した女子の2名(平野早矢香、福原愛)は悔し涙を流した。その一方で10代の中学・高校生選手がのびのびして予想を超えた好成績を残した。中学生の丹羽孝希が予選突破し本戦出場、高校生の松平健太、同じく石川佳純はいずれも上位を破って会場を沸かせた。
 メダルにあと一勝までこぎつけた男子・単の吉田、松平(健)、特に北京五輪のチャンピオンを追い詰めた松平(健)は期待の星となった。
 これら日本の若手選手の台頭を称えたITTF会長の閉会式の言葉は非常に象徴的であった。小生の率直な印象では、日本選手は一見逞しさに欠けるので、より強靭な身体能力を備えて相手を威圧するぐらいの基礎体力を養成してほしいと思う。

 以上ボランティア活動の傍ら卓球人として、再生日本の夢を描いた次第である。

ITTFミュージアム館長のチャック・ホーイ氏(中央)と 「米中のピンポン外交」毛沢東、周恩来、ニクソンの写真の前にて
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