通行証(報道関係者エリア)
ABICのご案内で世界卓球2014東京大会のボランティアに参加した。担当は報道写真家の入退出管理(ゼッケンの付いたベスト=ビブスの貸し出し・回収)で、競技終了後まで持ち場を離れることなく、休息はコンビニ弁当の数十分のみで、トイレタイムも予定できぬ、トラック横付けの搬入出場のコンクリート床の端に置かれた机に終日張り付いて、毎日23時ごろまで続く、フロント・ラインであった。
卓球といえば思い出すのは「ピンポン外交」だ。この大会でも中国の圧倒的強さが目立ったが、その躍進のきっかけは日本の卓球人の力にある。
名古屋での世界選手権大会(1971年)に、日本は中国の参加を呼び掛けた。中国は台湾を除外することを大前提としたが、日本卓球連盟会長(後藤)の強い働きかけで周恩来の勇断もあり、文化大革命で断絶していた、中国の参戦が実現した。
その大会でのあるハプニングを、時機我にありと速攻したのが「ピンポン外交」である。それは中国選手団のバスに誤って1人の米国選手が乗り込んだことに発する。これが米中の選手の交歓につながった。中国は機を逃さず、欧米の卓球チームを中国に招待する。その裏ではキッシンジャーが動き、ニクソン訪中となり、田中訪中に及ぶ。1972年の米中国交回復であり、日中国交回復に続くこととなる。
いま世界の卓球を圧倒的に制している中国も、かつては、日本を目指したのだ。英国を発祥とするピンポンは、球の弾ける音からの疑音名であるが、あるとき商標登録されたので、テーブル・テニスと名乗ることとなった。日本では、それを卓球と称した。第二次大戦後、日本はその繊細な身体能力を活かして欧州に伍して参戦し、国際卓球連盟の会長(荻村)を出すまでになる。中国は日本を学んで国家戦略としてピンポンを育てる。中国ではいまでもピンポンと称する。米中国交回復40周年には、カーター元大統領の訪中を求め、習国家副主席と大きな卓球ラケットに互いにサインして交換した。だが、卓球会の厚遇と選手行状の不始末などから、中国内で卓球人気は下火とも聞く。
今次の東京大会に関しては、日本の体育会系に組織能力が欠けているのではないかと実感した。オリンピックには国民の力を結集しないと「おもてなし」どころではなくなるのではと危惧している。その東京大会にもボランテイアで参加することを夢見つつ、いまバラの香に心をゆだねている。この機会を頂いたABICに感謝。