活動会員のレポート

「JA全農2014年世界卓球団体選手権東京大会」を支えるボランティアにABIC会員49人参加

 2014年4月28日から5月5日までの8日間、国立代々木競技場と東京体育館において、国際卓球連盟(ITTF)主催で首記の世界卓球大会が開催されました。この大会を支えるさまざまな分野の語学ボランティアとして49人の会員が活躍されました。その中の3人の方々が体験記をご寄稿くださいました。

「世界卓球」のボランティア活動報告

小笠原 おがさわら 明生 あきお (元 日本アイ・ビー・エム)


練習用コート前にて筆者

 2014年4月28日から5月5日にかけて東京で開かれた世界卓球団体戦のボランティア活動を報告する。
 この大会は地区予選を行わず、全ての国が参加できる。そのため、世界の耳目を集めている北朝鮮、シリア、ウクライナなど120以上の国や地域が参加した。日本を含む上位24ヵ国は代々木体育館、それ以外は私が配属された東京体育館で競技を行った。
 私はABIC会員として英語通訳ボランティア活動を行った。通算10年近く米国に滞在して得た英語力と異文化体験を微力ながら役立てることができた。私が配属された支援グループの任務は主催者である国際卓球連盟本部の補佐だ。
 試合前日の最初の仕事は100を超えるピジョン・ボックス(連絡箱)を設営することだった。参加団体との業務連絡箱であり、いわば通信インフラの設営だ。その箱には英語で書かれた試合結果や業務連絡用紙などが配布された。コンゴ共和国(Congo Brazzavilleと表示)とコンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congoと表示)など似たような名前の国を間違わないよう細心の注意を払った。
 また、マレーシアやインドネシアなどイスラム教の国からやって来た選手たちに対して、お祈りの部屋であるPrayer Roomが用意された。選手控え室であるPlayer Loungeもあるので、案内するときにはrとlの発音に気をつけた。
 課題を感じたのは水入りペットボトルの容量だ。本部が準備した容量は350㏄のペットボトルだった。しかし気温が高かったこともあり、練習用コートに一度に2本も3本も持っていく選手が後を絶たなかった。大容量に慣れている外国選手には350㏄では物足りなかっただろう。世界人口70億人中9億人が安全な飲料水を確保できないと伝えられている。その一方で、練習で大量の汗をかき、安全な水を自由に手に入れられる選手たちを複雑な思いで眺めた。
 今回の通訳は日常会話的な英語力で対応できた。東京五輪のボランティア通訳にも専門的な英語力よりはむしろおもてなしの気持ちを伝える姿勢の方が大切であろう。
 私は後方支援にまわったので本戦を見ていない。しかし、練習用コートで選手たちのひた向きな姿を見ることができた。これだけ多くの国の人たちに愛されている卓球というスポーツに親しみと興味を持った。
 このような貴重な機会を与えてくださったABIC、国際卓球連盟および日本卓球協会の関係各位に御礼申し上げる。

「世界卓球」のボランティア活動報告

小笠原 おがさわら 明生 あきお (元 日本アイ・ビー・エム)


ボランティアの控室で打ち合わせ

研修に始まり決勝に終わる
 GWを利用して世界卓球選手権ボランティアに初参加。2日の研修プラス最低4日間の参加が条件。春雨の3月30日、味の素ナショナルトレーニングセンター(板橋)での1回目研修は、ボランティアの顔合わせが目的。2回目研修は4月26日の代々木体育館。自分は「指定席担当」と知らされ、真っ赤なオフィシャルTシャツと黒ジャンパーが支給された。これが目当ての参加もあるらしいが、これで街を歩く勇気はない。続いて代々木と千駄ヶ谷の体育館を歩いて持ち場を確認。急な階段の上下は還暦過ぎた身にはちときつい。
 2日間の研修が終わり、翌27日は、いよいよ活動初日と意気込んで指定された千駄ヶ谷に朝早く行った。But 何時になっても客が来ず、聞いてみたら「試合は翌日から」。28日以降の担当場所は代々木のはず。なんで千駄ヶ谷に呼ばれたのかは謎。ともあれ、支給された日当1,000円で、GWなのに家で待つ妻へ手土産を買い家路に。

「マルドメ仕様」の代々木競技場
 試合初日の28日は有給休暇を取得し参加。早朝、人身事故で電車が緊急停止、表参道からは徒歩ホで定刻8時に代々木体育館にたどり着く。9時開場で、なぜか指定席階に自由席客が入ってくる。入口に自由席と指定席を示す看板がない。「なぜないの」と聞いたところ、「看板設置を求めたが許可されず」と。「席で食事はOK?」と客に聞かれ、総合案内所に案内したがNo one knows。慌てて協議し「OK」と決め、広い体育館を一周して他ボランティアに伝え終えた途端に、「席での食事はご遠慮を」と場内アナウンス。外国人から「VIP席はどこ」と聞かれてもWho knows。「本当に総合案内所?」と英語で皮肉られ。
 最多の質問はWhere is the toilet? 遠くに小さく「化粧室」の表示が1つあったが、ほとんど見えないし外国人に「漢字」はちと難しい。入口付近には喫煙場所のサインもない。暗くて急な階段に足元照明はなく「危険はいっぱい」。2020年の東京五輪は大丈夫か?
 日本男子は準決勝まで勝ち上がり大会は大盛り上がり。女子は大逆転で5日の決勝に。想定外の決勝戦でテレビ中継予定がなかったが、慌てて4日深夜に中継を決定。5日は早朝の地震で始まり、被害がないことを確認し開場。女子は決勝では負けたが銀メダル。多くのシニアパワーを実感したドタバタ体験だったが、わがままな?ボランティアを必死で束ねた大会関係者のご苦労には脱帽。

ピンポン外交

箭内 やない 克俊 かつとし (元 日本輸出入銀行)


通行証(報道関係者エリア)

 ABICのご案内で世界卓球2014東京大会のボランティアに参加した。担当は報道写真家の入退出管理(ゼッケンの付いたベスト=ビブスの貸し出し・回収)で、競技終了後まで持ち場を離れることなく、休息はコンビニ弁当の数十分のみで、トイレタイムも予定できぬ、トラック横付けの搬入出場のコンクリート床の端に置かれた机に終日張り付いて、毎日23時ごろまで続く、フロント・ラインであった。
 卓球といえば思い出すのは「ピンポン外交」だ。この大会でも中国の圧倒的強さが目立ったが、その躍進のきっかけは日本の卓球人の力にある。
 名古屋での世界選手権大会(1971年)に、日本は中国の参加を呼び掛けた。中国は台湾を除外することを大前提としたが、日本卓球連盟会長(後藤)の強い働きかけで周恩来の勇断もあり、文化大革命で断絶していた、中国の参戦が実現した。
 その大会でのあるハプニングを、時機我にありと速攻したのが「ピンポン外交」である。それは中国選手団のバスに誤って1人の米国選手が乗り込んだことに発する。これが米中の選手の交歓につながった。中国は機を逃さず、欧米の卓球チームを中国に招待する。その裏ではキッシンジャーが動き、ニクソン訪中となり、田中訪中に及ぶ。1972年の米中国交回復であり、日中国交回復に続くこととなる。
 いま世界の卓球を圧倒的に制している中国も、かつては、日本を目指したのだ。英国を発祥とするピンポンは、球の弾ける音からの疑音名であるが、あるとき商標登録されたので、テーブル・テニスと名乗ることとなった。日本では、それを卓球と称した。第二次大戦後、日本はその繊細な身体能力を活かして欧州に伍して参戦し、国際卓球連盟の会長(荻村)を出すまでになる。中国は日本を学んで国家戦略としてピンポンを育てる。中国ではいまでもピンポンと称する。米中国交回復40周年には、カーター元大統領の訪中を求め、習国家副主席と大きな卓球ラケットに互いにサインして交換した。だが、卓球会の厚遇と選手行状の不始末などから、中国内で卓球人気は下火とも聞く。
 今次の東京大会に関しては、日本の体育会系に組織能力が欠けているのではないかと実感した。オリンピックには国民の力を結集しないと「おもてなし」どころではなくなるのではと危惧している。その東京大会にもボランテイアで参加することを夢見つつ、いまバラの香に心をゆだねている。この機会を頂いたABICに感謝。