講義風景
私がABIC派遣講師として、初めて大学の教壇に立ったのは2009年5月だった。学生たちの前で日本の家電事業について、実体験を交えながら話を始めたその日の風景を鮮明に憶えている。
家電事業では発明やイノベーションは欠かせないトピックである。19世紀に始まった産業革命を軸に数々の大発明がなされたが、なかでも家電のスター商品である家庭用TVの歴史を語る際は、私はいつもマルコーニによる無線電信の実用化を起点にしていた。
信号を発信する英マルコーニ本社には大西洋を挟んだ新大陸側に信号の受信所が必要で、そこで米国法人アメリカン・マルコーニ社が誕生した。有名なRCA(Radio Corporation of America)社の前身である。同社の家電事業への貢献は現在でも他を圧倒している。単純な無線信号を進化させて世界初の全米ネットワーク放送局NBCとラジオ受信機を世に出し、次に画像信号を加えたTV放送(NTSC方式)を開発、さらにはカラーTV放送方式までの提案で、今日の世界の家電事業の基礎を作り上げた企業である。
2009年の学生たちはTV受像機がつい最近まで奥行の深いブラウン管式だったと説明すると、よく理解してうなずいてくれていた。アナログ放送から地上デジタルTV放送に移行したのが、デジアナ変換の移行期間を加えて2015年3月なので、ブラウン管TVもまだ現役だったのである。しかしその9年後の2018年の今は、様相がガラリと変化している。ブラウン管式TV受像機など、見たことも触ったこともない世代が出てきているからである。
現代のデジタルTVはブラウン管TVの単なる改良版ではない。ここに決定的な質的変化が生じている。ブラウン管TVとはTV信号の受信機能だけの受像機器だったが、現代のデジタルTVはディスプレイ付きコンピュータの一種で、複合機能を有した情報機器に変貌しているからである。
先日のTV番組では若手のタレントが、年長の出演者が口にした「電話のダイヤルを回す」という表現にけげんな顔を見せていた。「それはなんのこと?」彼らには電話機はボタン操作するもので、ダイヤルの役割など想像の外にあったからだ。電話機もTVに似て、受発信の単一電話機能から、現代のスマホの複合機能を駆使する情報端末に変化していたのである。
世代が変われば認識ギャップが生まれる、ジェネレーション・ギャップは周知のことだ。理解し記憶すべき知識と情報がどんどん圧縮されて、エッセンスだけを伝えていくことになるのはやむを得ない。しかし驚がくするのは、それが起こる時間軸が極端に短くなっていることだ。これまで時間をかけて徐々に進化・発展を遂げていた時代では、知識伝達に無理がなかった。しかしデジタル革命以来、イノベーションの速度があまりに速く、また技術の質的断絶も多く、ついには教育の場で語り手と聴き手の間の理解を困難にする巨大な溝を作り出し、その溝幅が年々大きく拡大を続けている。
今ではエレクトロニクス時代を開いた20世紀最大の発明品のトランジスタすら、その前身の真空管の実物を見せながら説明しても、聴き手になんら感動を与えない。聴き手の手元のPCは、それに電子回路までつけて50億個もの素子として埋め込まれているマイクロプロセッサーが動かしていると説明しても、教室の空気は静寂そのものだ。感動も驚がくもない。
歴史の厚みが伝えきれない時代になった。初講義から9年経過した時点で教室で当惑する講師が私の姿だが、皆さんはどう取り組まれているだろうか?