西・葡・伊・英・日・華6ヵ国語版別刷の企業誘致用小冊子が最近完成した。作成者ラファエラ市(以下、ラ市)は人口9万人、ブエノスアイレス市北方約600キロにある内陸都市である。農牧中心のパンパ平原にありながら、国際化に対する意気込みが強いことを伺い知ることができる。JICAシニア海外ボランティア(SV)としてここで2年間を過ごした(ロサリオ150万、サンタフェ50万に次ぐサンタフェ州第三の都市、JICAとはSV・コンサル受け入れ、訪日研修を通じ関係が深い)。
何かにつけ、ブエノスの存在が際立つ亜国は、ブエノス州とその他諸州の二国連邦ともいわれるほどである。最近、コルドバ、サ・フェなど中部3州が経済・文化など、幅広く協調することに合意した。“巨人”に対抗意識を燃やす地方勢の結束である。しかし、農牧に関しては、従来からサ・フェ州の主導は揺るがない。輸入国の期待を受け、小麦からの転作、新規開墾により、大豆作付面積増加にやっきの亜国だが、その鍵を握るのはパンパである。連作による土地の疲弊、農薬使用による影響が指摘されるなか、大豆の進撃は続き、牧場が移動を余儀なくされることもある(輸出税、穀物20%、工業製品5%、全税収の1割を担う)。
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事務所で新旧カウンターパート(CP)と。右端が前CP(現 州下院議員)。二人目が現CP(市経済局長)、左はCPアシスタント。 |
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カーレースの伝統。1921年のチャンピオン(米国製DORT改造車)。26年500マイルレース開始、70年インディ300初の米国外開催地となる。 |
この地に最初に足を踏み入れたのはイタリア人で移民開始翌年の1881年のことである(伊移民開始80年、スペイン移民に300年の後れ、独立は1816年)。市民の過半は北部ピアモンテ(スイス国境近く)出身者の流れを汲む。勤勉、質朴、進取が出身地の気風という。ラ市が酪農品のみならず、工業製品でも健闘しているのは、初期移住者の出身地と無関係でない。移住者は到着後いち早く、職能工育成に取り組み、実践の場として金属加工場を作った。
1920年代後半、早くも自動車レースが開催され、大勢の市民が観戦している写真が残されている。南米初のインディ300の開催地であり、今も国内サーキットの地として、多くのファンが馳せ参じる。
市民は純朴で親切、日本人には殊更にフェアであった。街並みは中央広場を基点に碁盤目に整備され、ゆったりした石畳路を緑豊かな樹木が覆い、手入れの行き届いた公園の草花と共に心を和ませてくれた。出会ったブエノス出身のタクシー運転手は人情と治安の良さが気に入り、“衝動的移住”をしたという。かつてのドイツ人企業実習生で、いまは地元企業で活躍する中堅社員にも会った。どことなく魅力のある街のようだ。しかし、なにかと気ぜわしく、変化を求める日本人がこの地に長居することは容易でないと思う。
昨年来、大豆・自動車部品輸出を牽引役に景気が回復、休眠中の商店が再開する光景を頻繁に見かけた。地域パワーの更なる強化のため、市は人口増加を目標に掲げ、西・伊に移住した市民にもUターンを呼びかけている。10万都市に仲間入りし、晴れて外国製地図に登場する日も遠くないことだろう。一段と経済力を増したラ市が、亜国経済の元気回復の原動力の一端を担う時期が到来しないものかといささか過大な期待も抱いている。
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国旗を非常に大事にし、国旗の日という祭日がある。中央は警察署。街中は緑が豊富。 |
さて、命題は貿易指導と輸出実務OJT。ラ市は自動車部品、農機具、飼料・食品機械(含む冷凍機)など酪農関連機器の生産も活発で、官民あげて輸出に意欲を燃やしている。エンジンバルブなど輸出比率6割を超える製品もあり、酪農品と並ぶ主力輸出品である。欧米に工場、配送センターを持つ企業、米企業を買収し設備移転した企業もある。一方、経済不況、為替大幅切り下げの結果、欧州資本を受け入れた企業も数社ある。従業員数百人を超える企業は一握りで、大半は従業員数十人以下、輸出も羅米域内止まりである。ほとんどが家族経営で、その多くが工業団地に集結する。
インド・南ア(共に同種製品輸出国)・中東市場に的を絞り挑戦したが、反応の鈍さは想像以上であった。反応を示した貴重な相手先とも、具体的商談まで至らなかった。目的を共にする仲間が相手国に不在だったのが弱点であった。唯一の成果は、蜂蜜輸出を託した日系食品商社が1年かけて商談を纏めてくれたことであった(対日輸入9割以上中国、二番手の亜国2〜3%)。単なる紹介役に過ぎなかったが、養蜂家組合から感謝状(額)まで届けられ、市役所にちょっぴり面目を施すことができた。
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